禁止・強制、「ダメ、ゼッタイ。」

備忘録的にレーシック後遺症の記録を綴っていきます

過矯正の怖さ(近視v.s.遠視)

 

昨晩、夢で遠視なのに狭い部屋に閉じ込められて、発狂しそうになりながら目を覚ましたので、レーシックによる遠視の怖さについて思うところをいくつか。

まぁ、別に近視と遠視で戦う必要などまったくないのですが、一応バーサスってことで。

※レーシックによらない遠視持ちの方を中傷する目的ではありません。あくまで、レーシックによる過矯正がどれほどの苦しみをもたらすかという観点から、個人的見解を書いています。

 

 

●眼精疲労 近視vs遠視

まず、一口に「眼精疲労」と言いますが、遠視の眼精疲労に比べたら近視の時の疲れ目・眼精疲労など“屁”です。
「あ~疲れた~」と眼鏡やコンタクトをはずし眼を閉じればジワ~と楽になりますし、一晩寝れば相当回復し翌日持ち越しの疲れもかなり少なかったのだと、今になって実感しています。
一方、遠視の眼精疲労はいつでも調整緊張してるので、常時逃れることのできない疲労が蓄積し続ける毎日です。

 

 

●震災に備えて? 近視vs遠視

大手クリニックで「震災に備えてレーシック」などと新入社員プランナーでも考えない低脳丸出しな広告戦略を行ってるところがあるようです。

近眼と過矯正どちらも経験した身から言わせて貰うと、両者を比べた場合、震災や自然災害(矯正器具が使うに使えない状態)でどちらが生き残れるかと言われれば、間違いなく近視の方です。

避難所で壁に張り出された情報なんかも近視は近づけば見えますし、手元の書類だって腕で引き寄せれば読めます。

被災した後、素人が自分で行方不明者の遠方捜索でもするのでしょうか?

そんな可能性は低いし、自身が「捜索する側」になって既に生き残ってるなら矯正器具だって入手できたり、入手できなければ避難所に留まるという選択もありますね。

人間、自分の体の周辺や手元が見えなければ生き残れません。非常用カップラーメンに注いだお湯の量すらわからないのです。手に傷があっても、その深さが見えず目との距離を離すにも限界があります。

また、避難所の狭い空間で遠視であることがどれほどの地獄か。被災した上に強制的な調整緊張による眩暈や吐き気があってはどうにもならない絶望の毎日です。

だって、過矯正にされた人は被災してなくても生きるのでやっとですから。

崩れた家屋の下の狭い空間に閉じ込められでもしたら、なにも見えないばかりか吐き気との戦いです。(出典:俺の昨日の夢)

 

●仕事 近視vs遠視

どこのブログでも散々書かれている当たり前のことですが、仕事のほぼすべてにPCが入り込んでいる現代社会では、遠視であることは大いなるハンディキャップです。

近見作業を1時間もしたら吐き気や頭痛に襲われるなど、1週間やそこらなら許容されるでしょうが、いつまでもそんな調子では雇用する側からみたら良い気分はしないでしょうね。実は今日も、上司の目を盗んではPCモニタを見てる振りして、モニタよりもはるか遠くに焦点を合わせて目を休めてる始末でした。

 

 

●運転 近視vs遠視

コレはさすがに遠視有利だろ~、と思いましたが、結構つらいです。

ルームミラー、助手席側ドアミラー、運転席側ドアミラー、頭上の信号、右左折時には視界の端の歩行者等々、割と近い距離や力の入る場所を何度も繰り返し見なければならず、遠方と近場の焦点調節が大量発生する自動車の運転は、吐き気を伴うことが結構多いです。

また、レーシック過矯正による場合、眼位の狂いやら不正乱視もあり、夜はハロ、グレア、スターバーストやらがあるから、なおさら運転には不向きな眼ですね。

 

以上、過矯正による遠視はマザファッキンである、というお話でした。